足の「人指し」指
S | M | T | W | T | F | S |
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
31 |
人生の表現方法
私が生まれてはじめて踊ったのは、3歳のときだった(そうだ)
毎年恒例になっていた、夏祭りでの町内会館での特設舞台だ
そこでは、子どもから老人まで、民謡を踊っていた
私の祖父が、長年、町内会長をつとめていたことから、私と姉はほんとうに小さいころから、毎年その舞台で踊らされていた
毎年、梅雨の季節になると、町内会館での踊りの練習が始まる
そこでの先生は、日舞を教えていた女性で、あとから聞いたところによると、祖父の愛人(のひとり)だったそうだ
愛人の孫だったからか? 私は、その踊りの先生にとても可愛がられた
小学校に入るころ、その先生から「正式に踊りを習わないか?」と誘われたことを覚えている
私は、家でひとりで留守番をしているとき、本を読んでいるか、家にあった民謡のレコードをかけて、振り付けもめちゃくちゃに踊っているかだったので、その先生の申し出が嬉しかった
ところが、当時、父は無職
母が、1日に3つの仕事をして生計をたてていた
(軍人恩給をたっぷりともらっているはずの祖母は、父働かなくなったとたんに、実子の家に逃げるように居を移していた
祖母は後妻で、私の父は前妻の長男だった)
幼かった私は理解できていなかったけれど、当時の生活は苦しかったに違いない
それでも母は、私と姉がピアノ教室に通うことだけは、やめさせなかった
「踊り、やりたいんだけど、、、」
そう母に言うと
「踊りはお金がたくさんかかるから、うちでは習わせてあげられない」
そういう答えだった
そう言われれば、当時小学校1年生の私は、すぐに要求をとりさげるより他なかった
それでも、毎年の夏祭りに踊ることだけは、小学校5年生まで続けることができた
その後、大学進学とともに実家を出て一人暮らしをはじめ、学費以外のサポートのまったくなかった私は、食うや食わずの苦学生になった
それでも、劇団に入り、バイトと芝居の練習、そして単位を落とさない程度に大学に通っていた
劇団では舞台で踊ることも必要になってきた
そこで、当時の劇団のダンスの指導者が通っているジャズダンスの教室に通うことになった
渋谷のチャコットでレオタードとタイツを買い、チケット制のジャズダンスのクラスに通った
もちろん初心者の私は、身体も柔らかくなく、とても苦労したのを覚えている
けれど、そのうち大きな鏡の前で踊ることが楽しくなり、それにともなってダンスのステップも、一度見ただけで踊れるようになった
劇団のダンスの指導者は、振り付けも担当していた
振り付けをする人は、音楽を聴きながら、インスピレーションで踊っていく
インスピレーションだから、自分でたった今踊った振りさえ、自身で覚えていないことも多い
そこで、ステップを覚えるのが早い私が、アシスタントにつくことになった
「あれ? いま、どうやって踊っていたっけ?」
指導者がそう言うたびに、
「はい、今は、こうやって踊っていました」
そう言って、たった今、振付師が踊ったばかりの踊りを再現するのが、私の仕事になった
劇団に所属しているあいだに、日舞も習った
幼いころから夢見ていた世界だったけれど、長唄ののんびりしたメロディには、結局きもちがついていけず、2曲仕上げたところで辞めた
踊りというのは、
「1日休むと、自分で(技術が下がるのが)わかる
2日休むと、一緒に踊る仲間にもわかる
3日休むと、観客にもわかる」
といわれるほど、1日休んだだけでも命取りになる世界だ
それなのに、私は、途中体調を崩して、2週間休んだことがあった
劇団の仲間は、私の踊りのレベルが下がってしまったに違いないと心配してくれていた
休んでいるあいだ、私も、踊れないジレンマをかかえながらも、ずっとイメージトレーニングだけは続けていた
そして、練習再開の日、舞台では、振り付けがずいぶんと進んでしまっていた
必死でステップを目で追い、身体をつけていくと、、、、
「休む前よりも上手になっているっ!」
そう驚かれた
そのときから、私は、踊ることがもっともっと好きになった
芝居のなかで踊るシーンでは、私は、主役のすぐ近くで踊ることを許されるようになった
ところが、あいかわらず「その他大勢」の役しかもらえなかった
次の公演で、有名なタレントが客演することに決まり、このまま続けても芽が出ないと落胆した私は、断腸の思いで舞台を降りた
踊りは好きだったけれど、それ以上に、当時の私は芝居がしたかったのだ
私の「踊り歴」なんて、そんなものだ、、、
25年ぶりに踊りをはじめて、嬉しいことに、振りを覚えるのが早いことには変わらなかった
「普通の速度の2倍の速さで、進んでいるわよ」
フラメンコの先生からも、そう声をかけられた
けれど、振りなんて、練習をつめば誰だっていつかはちゃんと覚えられる
努力すれば、技術はちゃんと、あとからついてくる
それよりも、どう表現できるかのほうが大事だ
とくにフラメンコは、自分自身が表に出てしまう踊りなので、ジャズダンスよりも奥が深い
「フラメンコは、踊り手も歌い手もギタリストもすべて、その人の人生そのもの」
大手のフラメンコ舞踊団の団長先生が、そう話していた
もう一つ、私が目指している Story Telling の世界も、実は、大勢の観客のまえで自分自身をさらすようなものだ
「同じ曲を踊っても、どうしても、その人自身の人生観があらわれてしまう」
それがフラメンコの世界なのだそうだ
「同じおはなしを語っても、どうしても、その人自身の人生が観えてきてしまう」
それが Story Telling の世界なのだ
私自身の人生、、、、
どうしよう、、、、
かなり、薄っぺらいよ~~~、、、、、
薄っぺらいなりに、あと3年、続けてみようっ
3年後、ちょうど50歳になる私は、どんな語りを? どんな踊りを、披露できるんだろうか?
不安だけど、、、けっこう楽しみかもしれないっ 笑
毎年恒例になっていた、夏祭りでの町内会館での特設舞台だ
そこでは、子どもから老人まで、民謡を踊っていた
私の祖父が、長年、町内会長をつとめていたことから、私と姉はほんとうに小さいころから、毎年その舞台で踊らされていた
毎年、梅雨の季節になると、町内会館での踊りの練習が始まる
そこでの先生は、日舞を教えていた女性で、あとから聞いたところによると、祖父の愛人(のひとり)だったそうだ
愛人の孫だったからか? 私は、その踊りの先生にとても可愛がられた
小学校に入るころ、その先生から「正式に踊りを習わないか?」と誘われたことを覚えている
私は、家でひとりで留守番をしているとき、本を読んでいるか、家にあった民謡のレコードをかけて、振り付けもめちゃくちゃに踊っているかだったので、その先生の申し出が嬉しかった
ところが、当時、父は無職
母が、1日に3つの仕事をして生計をたてていた
(軍人恩給をたっぷりともらっているはずの祖母は、父働かなくなったとたんに、実子の家に逃げるように居を移していた
祖母は後妻で、私の父は前妻の長男だった)
幼かった私は理解できていなかったけれど、当時の生活は苦しかったに違いない
それでも母は、私と姉がピアノ教室に通うことだけは、やめさせなかった
「踊り、やりたいんだけど、、、」
そう母に言うと
「踊りはお金がたくさんかかるから、うちでは習わせてあげられない」
そういう答えだった
そう言われれば、当時小学校1年生の私は、すぐに要求をとりさげるより他なかった
それでも、毎年の夏祭りに踊ることだけは、小学校5年生まで続けることができた
その後、大学進学とともに実家を出て一人暮らしをはじめ、学費以外のサポートのまったくなかった私は、食うや食わずの苦学生になった
それでも、劇団に入り、バイトと芝居の練習、そして単位を落とさない程度に大学に通っていた
劇団では舞台で踊ることも必要になってきた
そこで、当時の劇団のダンスの指導者が通っているジャズダンスの教室に通うことになった
渋谷のチャコットでレオタードとタイツを買い、チケット制のジャズダンスのクラスに通った
もちろん初心者の私は、身体も柔らかくなく、とても苦労したのを覚えている
けれど、そのうち大きな鏡の前で踊ることが楽しくなり、それにともなってダンスのステップも、一度見ただけで踊れるようになった
劇団のダンスの指導者は、振り付けも担当していた
振り付けをする人は、音楽を聴きながら、インスピレーションで踊っていく
インスピレーションだから、自分でたった今踊った振りさえ、自身で覚えていないことも多い
そこで、ステップを覚えるのが早い私が、アシスタントにつくことになった
「あれ? いま、どうやって踊っていたっけ?」
指導者がそう言うたびに、
「はい、今は、こうやって踊っていました」
そう言って、たった今、振付師が踊ったばかりの踊りを再現するのが、私の仕事になった
劇団に所属しているあいだに、日舞も習った
幼いころから夢見ていた世界だったけれど、長唄ののんびりしたメロディには、結局きもちがついていけず、2曲仕上げたところで辞めた
踊りというのは、
「1日休むと、自分で(技術が下がるのが)わかる
2日休むと、一緒に踊る仲間にもわかる
3日休むと、観客にもわかる」
といわれるほど、1日休んだだけでも命取りになる世界だ
それなのに、私は、途中体調を崩して、2週間休んだことがあった
劇団の仲間は、私の踊りのレベルが下がってしまったに違いないと心配してくれていた
休んでいるあいだ、私も、踊れないジレンマをかかえながらも、ずっとイメージトレーニングだけは続けていた
そして、練習再開の日、舞台では、振り付けがずいぶんと進んでしまっていた
必死でステップを目で追い、身体をつけていくと、、、、
「休む前よりも上手になっているっ!」
そう驚かれた
そのときから、私は、踊ることがもっともっと好きになった
芝居のなかで踊るシーンでは、私は、主役のすぐ近くで踊ることを許されるようになった
ところが、あいかわらず「その他大勢」の役しかもらえなかった
次の公演で、有名なタレントが客演することに決まり、このまま続けても芽が出ないと落胆した私は、断腸の思いで舞台を降りた
踊りは好きだったけれど、それ以上に、当時の私は芝居がしたかったのだ
私の「踊り歴」なんて、そんなものだ、、、
25年ぶりに踊りをはじめて、嬉しいことに、振りを覚えるのが早いことには変わらなかった
「普通の速度の2倍の速さで、進んでいるわよ」
フラメンコの先生からも、そう声をかけられた
けれど、振りなんて、練習をつめば誰だっていつかはちゃんと覚えられる
努力すれば、技術はちゃんと、あとからついてくる
それよりも、どう表現できるかのほうが大事だ
とくにフラメンコは、自分自身が表に出てしまう踊りなので、ジャズダンスよりも奥が深い
「フラメンコは、踊り手も歌い手もギタリストもすべて、その人の人生そのもの」
大手のフラメンコ舞踊団の団長先生が、そう話していた
もう一つ、私が目指している Story Telling の世界も、実は、大勢の観客のまえで自分自身をさらすようなものだ
「同じ曲を踊っても、どうしても、その人自身の人生観があらわれてしまう」
それがフラメンコの世界なのだそうだ
「同じおはなしを語っても、どうしても、その人自身の人生が観えてきてしまう」
それが Story Telling の世界なのだ
私自身の人生、、、、
どうしよう、、、、
かなり、薄っぺらいよ~~~、、、、、
薄っぺらいなりに、あと3年、続けてみようっ
3年後、ちょうど50歳になる私は、どんな語りを? どんな踊りを、披露できるんだろうか?
不安だけど、、、けっこう楽しみかもしれないっ 笑
by nitonyan
| 2006-04-16 09:07
| Duende
「親より出世するよ」
私の母は、私にそう言い続けた
「親より出世するよ」
そう息子に言ったとたんに、はじめて私は、私の母の気持ちが理解できた
「親より出世するよ」
それは、
「親より出世してほしい」
という親の願いと、期待だった、、、
「La Postal 1日1信」
私の母は、私にそう言い続けた
「親より出世するよ」
そう息子に言ったとたんに、はじめて私は、私の母の気持ちが理解できた
「親より出世するよ」
それは、
「親より出世してほしい」
という親の願いと、期待だった、、、
「La Postal 1日1信」
カテゴリ
カテゴリの説明(New!)足の「人指し」指
土踏まず
足の小指
アキレス腱
くるぶし
かかと
すね
ひざ小僧
Duende
Story Telling
God Spell
親の子離れ・子の親離れ
ライフログ
お気に入りリンク
ライフログ
フォロー中のブログ
怪談百八つ物語ナギヲWorks
主日の御言葉
about ・ぶん
Miechel
響の言葉
祈りよ届け 願いよ叶え
アスペルガー社会人のBlog
のこたんのきらきら絵手紙...
なすびの花は無だばかり
絵てがみに だんだん